H/STORY SEASON 02

朝の青みがかった乳白の光がとろり、漏れている。
クローゼット・ルームにしている屋根裏部屋。
大きな格子窓から差す光を眺めるたび、
ナオミは今、自分がロンドンにいることを再認識する。

この曖昧で孤独な光がどうしようもなく好きだから、この街に20年以上も暮らし続けているのかもしれない、とさえ思う。ナオミは高校を卒業後、ロンドンにあるファッションの専門学校に入学するため渡英した。そして在学中、クラスメイトだったパートナーと一緒にブランドを立ち上げ、そのまま結婚をし、住み着くことになった。幸いにもブランドは軌道に乗り、日本でも扱ってもらえるお店も増えていた。展示会のため、日本に帰国するまで残り1週間を切っていた。ただでさえ雑事が重なって落ち着かないのに、昨夜はパートナーのアンジェとささいなことで口論になり、気分は最悪だった。仕事もプライベートも一緒というのは、こういう時どこにも逃げ場がない。普通なら友人にぶちあけるのだろうけれど、ナオミには今、そう言える相手はいなかった。

友人がいないと言うと、まわりからさみしくない?と心配してくれるけれど、実はさみしくなかった。強がりでもなんでもなく、本当にそういう感情が湧いてこないのだ。時々それで、自分は冷たい人間なんじゃないか、と思い煩うこともあった。だけど、今はなくなった。しょうがないじゃないか、そういう人もいるんだから、と。どこか諦めにも似た。一番気のおけない友人は、自分。そして本だった。本を読み、言葉を拾い、胸にしまい、頭のなかでそれを転がしているだけで、たいていの時間を過ごせた。

今朝は、気分はまったく乗らなかったけれど、そんなことは言っていられない。今日は大事な商談がある。ナオミはクローゼットから、迷わずトレンチコートを手に取った。

ナオミが初めてトレンチコートに袖を通したのは、18歳。卒業の記念にと、父親が買ってくれた。父はもともとトラディショナルなスタイルが好きで、スーツは常に英国製生地のオーダーメイド。トレードマークのトレンチコートも、ジャストサイズをしっかりベルトをして着るような人だった。プレゼントしてくれた時、父が自嘲ぎみに言ったことを、ナオミは今でもありありと思い出す。「この肩のところにストラップがあるだろ。これはエポーレットと言って、勲章を付けたり、あと戦争で倒れた仲間を引っばり上げる役目もあったそうなんだ。パパも落ち込んだ時、何回これで武装して、無理やり気分を引っぱり上げたことか」そう、これさえ着ていれば、ちゃんと大丈夫になった気がする。ナオミにとってトレンチコートは、心が折れそうになった時に必ず纏う、お守りのような存在になった。

羽織る前、いつものように洋服ブラシでさっとブラッシングをする。これはお手入れというより、ナオミにとっては小さな生活の儀式のようなもの。すると時々「彼女」のことがふと、頭をよぎるのだ。

友人はいない。さっきはそう言ったけれど、ナオミにはかつて大切な友人がいた。といっても、かれこれ20年以上会っていない、高校時代の友人。名前はサヤカ。サヤカとは、限りなく濃密な時間を過ごした。どこか学校に馴染めず、尖っていたナオミにサヤカは、美しいほどの好奇心で近づいてきた。そしてナオミの行き場のない青い思いを、ぜんぶ引き受けてくれようとした。ふたりの心の壁が取り払われてからは、ありったけの秘密を打ち明けあった。大人の世界で行われていること、日常のささいなこと、家庭の事情。そこで生じたやりきれない思いを詩にしたため、交換したりもした。

またナオミが使っているもの、読んでいる本、聴いている音楽、付けているアクセサリー、いずれにもサヤカは興味を示した。そして自分もまねをしては「あれ、よかったよ。私にも合う。ホントありがとね」と、はにかんだような笑顔を必ずくれた。 洋服ブラシも、そのひとつだった。ナオミが制服のジャケットにブラッシングをして手入れしていることを言うと、サヤカもすぐに実行した。もともとスタイルがよく、真面目で品のある子だったけれど、きちんと洋服を着ると、たちまち垢抜けていくのが分かった。当時学校では、制服を「着崩す」ことこそがカッコいいとされていた。そんなのナンセンス。トラッドなアイテムは、きちんと着てこそ存在に花が咲く。そう信じていたナオミは、ことあるごとにそれをサヤカに伝えた。父親の影響もあったのかもしれない。

それは、今の洋服作りにも、すべからく生かされていた。デニムやシャツ、チノパンなど、愛され続けているスタンダードな素材とデザインには、やっぱり確かな理由がある。そこに最大限の敬意を払いながら、ほんの少しのアレンジを加えたものが多かった。ディテールではなく品を足したり、今の時代のシルエットに添わせたり。ナオミはそのほうが、実はクリエイティブで知的な行為であると信じていた。作られた物語を知ること、そこに思いを馳せること。

ナオミはトレンチコートをしっかり羽織り、ロンドンの曇り空へと歩き出した。

Text: Mitsuharu Yamamura