H/STORY SEASON 03

「降りそそいでいる」
サヤカはラフィア編みの帽子を片手で押さえ、くっと見上げながらそう思った。最寄り駅のコンコースを抜けた広場はすこぶる開放的で、大きなガラス屋根に覆われ、雨でも濡れることはない。その日は天気がよく、陽がさぁっと盛大に射し込み、床に格子の影をつくっている。その様子に、サヤカは心が洗われた。外よりもガラスを通したほうが、神々しい「光」の存在をそこに感じたのだ。毎日のように通るこの広場だけど、今まで意識したことがなかった。これは、何かいいことが起きる予兆かもしれない。サヤカはほんのりときめいた。

……それとはもはや比較にならないほど高く胸が鳴り響いたのは、すぐあとのことだった。「トークショー開催のお知らせ」。近くのショッピングセンターのフリーペーパーをぱらぱらとめくっていた時、イベント案内の記事に記されたゲストの名前が高校時代の親友、ナオミと同じだったのだ。肩書きは「ロンドン在住で、今もっとも注目されるファッションブランドのディレクター」となっている。世界中に熱狂的なファンがいながらも謎に包まれた彼女の素顔に迫る、という内容だった。もしかして、あの「ナオミ」なのだろうか。彼女は、サヤカの中でもう会うことの叶わない、憧れの存在となっていた。高校時代、彼女のセンスと思考に、どれだけ影響を受けだろうか。どれだけ青春の心を焦がしただろうか。ささいなことで喧嘩をし、その後ずっと疎遠のままなのが、心の奥底でささくれのようにひっかかっていた。同姓同名だという可能性も、もちろんある。確かめたい。でももし彼女だったとしても、向こうは自分のことを、果たして覚えているだろうか。

トークショーの日の朝。ナオミはお茶ノ水にある小さなホテルの一室で、トランクから白いブロードシャツを取り出した。ウエストを絞っていないマニッシュなシルエットだが、袖口のタックなどディテールが、いささかの女性らしさを感じさせる。大きな仕事が始まる時、気持ちをまあたらしくしたい時、ナオミは必ず白いシャツを着るようにしていた。それはファッションというより、昔から続く習慣のようなもので、あえて誰にも言うことはなかった。ただひとりを除いては。高校時代の親友であったサヤカは、ナオミのことをなんでも聞きたがった。あの時もそうだ。2年生の冬休み、サヤカと一緒に初詣に行くために待ち合わせ場所に着くと、開口一番「どうして白シャツ?いつも学校で着てるのに」と聞かれ、こう返した。「何言ってんの。白いシャツってシンプルなだけに、生地やシルエットで全然印象が変わるんだって。あとさ、やっぱりあたらしい年には白いシャツがいいよね。思いがあらたまるっていうか」そんな、生意気だった当時の自分を思い出しながら、ナオミはシャツの最後のボタンを留めた。

娘の夕食を作るのに手こずって、すっかり遅くなってしまった。サヤカは急いで、前から準備していた白いシャツと紺のジャケットに着替える。すると娘が物珍しそうにこっちを見る。「お母さん、どうしたの?その格好。こんなにあったかいのにジャケットまで。学校の制服みたい」という言葉に「いいのいいの。じゃあ、ちょっと行ってくるわね」と適当に返しながら、そそくさと家を出る。結局、10分ほど遅れて到着すると、すでに会場は満員状態だった。サヤカはその熱気にいささかたじろぎながら、後ろのほうに立った。トークショーはまさに始まろうとしており、司会の人が前説明をしているところだった。「では、いよいよ登場していただきましょう。どうぞー」。現れた瞬間、すぐに分かった。間違いない。ナオミだった。あの意思の強そうな顔立ち、姿勢の良さ、重めのボブさえも、高校生の時と変わらない。もちろん齢を重ねた分の容姿になっていたが、むしろ余裕のようなものが生まれ、美化していた分、むしろイメージに近く感じた。サヤカは大きく吸った息が震えているのが、自分でもわかった。

トークショーの間じゅう、サヤカはずっと心の中で、こう叫んでいた。すごい。すごい。本当にナオミはすごい。海外に行って、日本人というハンデも乗り越えて、現地でブランドを立ち上げて、こんなにも頑張って、成功して、立派になった今がある。それに比べて自分はどうなのだろう。洋服の着こなしとか、自信の持ち方とか、あの時彼女に教えてもらったたくさんのことを、果たして生かせているだろうか。ナオミにちゃんと顔を合わせられる、自分になれているのだろうか。うれしさと誇らしさと切なさと自信のなさ、いろんな感情がぐるぐるとめぐった。トークショーは佳境を迎えていた。司会の人が質問をする。「では、そんな苦しい時を、どのようにして乗り越えたのでしょうか?」するとナオミはひと呼吸置き、こう答えた。「私には、高校時代の親友がいます。もう20年以上会っていません。でも、ことあるごとに彼女のことを考えます。気を張りすぎて疲れてしまった時も、どうしようもなく孤独を感じる時も、息を整えて、目を閉じて、彼女の顔を思い出すんです。すると心がまるくなって、穏やかな気持ちになるんです。大丈夫、私には彼女がついてると。会わなくてもいいんです。会わなくても、ちゃんと、救われているので」。そう言うと、ナオミはまっすぐにこちらを見た。目が合った。キュッと結んだ口の端が上がり、微笑みをたたえながら、大きくうなづいた。その後、口角が逆に下がっていくのを、サヤカはにじむ涙で目の前がぼやけ、ちゃんと見ることができなかった。

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風の冷たい日に、二度と心細いめに逢わないために、
分厚いウールのコートを、常に用意しておくように。
人は人生のうち、ひとり、あるいはふたりの
「会わなくていい友人」を持つべきだ。
それは、出会った日からすでに予感めいていて、
儀式のごとく目と目を合わせ、
ふたりの濃密な時間を過ごせば、もうわかる。
それからは、約束しなくていい。
どこかいる、そう感じるだけでいい。
とらわれた気持ちも、逃すことができる。
温めきれない心の芯も、うまく温まる。
あの時の記憶を、ていねいに思い重ねるだけで、
人はもう、ずっと救われ続ける。

Text: Mitsuharu Yamamura